新年のご挨拶

2017年(平成29年)新しき年を迎えて                                                                                      

            御挨拶      理事長   松本栄二

 

 新しき年2017年を迎えるに当たって、社会福祉法人麦の家は、非常なる覚悟を以って、①非営利事業として介護保険制度下にある②対人福祉サーヴィス(パーソナル・ソーシャルサーヴィス)の主たる一領域を占める介護。福祉を指向する③民間社会福祉(ヴォランタリ・ソーシアルワーク)実践の④事業者(エージェンシ)であることを、自らに厳しく問い続ける⑤専門職的使命の確認とその実施に向けて、今一度心を新たにして歩み続けることを確認したいと思う。

 社会(に住む人々)は、〝いま“そして〝これから”の永きに亘って、なぜ認知症対応型共同生活介護=認知症対応のグループホームを必要としているのであろうか。麦の家は、その問いに応えていく責務を、今一度改めてこの年の初めに、自らを見直し広い視野を以て考察することを全職員一同と共に課することを確認したいと思う。

 
 公私にわたる権力は、巧妙な手続きと強硬な行政的手続きにより、社会福祉パラダイムの転換を高齢者介護の福祉領域に向けて、その差別することなく弱小の認知症対応グルプホームに求め続ける。その厳しいものとさせずには措ない社会的状況は、人口移動による地域格差、世代間の乖離、更には、所得格差等複合的格差の要因により、小さな一村内に於ける小地域間に異なる変動をもたらし歴然とした格差が生じつつあるを確認することが出来る。文化としての家族システムは急激な変化を起こし、家族の絆は変質化を促しつつある。に加えて、経済成長への望みを絶たれて直面する社会保障財源の危機は、財源削減のターゲットとして、制度化して未だ日の浅い、権力基盤の弱い認知症対応のグループホームに向けられ、その役割・機能、そして組織構造の転換をも政治的権力のもとに進めつつあることを見極めること、そしてそれに賢明なる対処を模索しなければならない。

 
 社会福祉法人麦の家は,この事態に息をつめつつ、昨年末、国が提示する社会福祉法人の定款例に即して、すべての社会福祉法人の組織構造の変更が強いられつつあることに、社会福祉の枠組み(アイデンティティい)が益々曖昧になりつつあることに昨今、社会福祉法人麦の家は、その役割・機能そして構造についても、改めて見直し検討する必要を痛感する。

 麦の家は、ここ数年、毎年の法人行事の一つとして12月になるとクリスマス礼拝とお祝いの集いを持って参りました。単独型のグループホーム麦の家は、定員18名の小さな事業所ですから75名も集まる家屋内の場所を作ることは大変なことです。それでも職員らの献身的努力でその場所が毎年作られます。村長をはじめとして地域の人、いつも麦の家の住人が世話になる地域の人、ヴォランティアの人、入居生活者18名とその家族、其処に麦の家の役員・職員らによる混成集団が、約2時間(その間20分の休憩)の間に一部礼拝、2部祝会の構成でクリスマスの行事を行ってまいりました。その評価は、第1部の礼拝の部に多くあった。「クリスマスってあんなこと(礼拝)するんだ!」と感嘆の声を聴いてまいりました。勿論、職員やお客様そして入居生活者お年寄りやその家族による様々な歌や芸による楽しい催しへの賛美もさることながら、神父によるお話しや認知症を患うお年寄り(キリスト教の信仰を持つ)による聖書朗読やたどたどしい声で行われるお祈り、そして職員による讃美歌等々に、その家族の人を始めとする多くの参会者による驚き(『初めて聞いた』など)であった。そこには、キリスト・イエスについての物語は勿論その名前さえも出てこない礼拝と言う形式を用いたものであった。

 
 ところが、昨年11月のスタッフ・ミーチングに於いて、今年のクリスマス行事について、職員らによる話し合いのなかで今年のクリスマスに“生誕劇”を計画してみることを提案したところ、保母資格を持つ職員数人より「その台本を持っている」との提案があり、瞬く間にその計画・実行が職員らによって進められていた。そして、2016年12月10日午前10時30分より12時過ぎまでの間にクリスマスの行事を終え、そのあと家族会(1家族を除き全家族の参加)を持つことができたのである。ドミニコ修道会の神父による聖書朗読とお話し(イエスの生誕)に始まる礼拝、そして、職員と認知症を患うお年寄り合同による生誕劇の後、プレゼント交換・愛餐会を持つことができた。話題は全体としてのクリスマス行事についての圧倒的に高い評価であった。

 
 私は、麦の家の開設より此の方20年、その間『一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにてあらん、もし死なば多くの実を結ぶべし」という聖書に書かれた、この社会福祉法人麦の家の基本理念について未だ一度も麦の家に於いて、質問もなければ自ら話すことのなかったことを改めて自ら不思議に思うのです。

 今、私はこの新年の挨拶に於いて
『地に落ちて死んだ、一粒の麦』具体的には、イエスとはいかなる人であったのか?イエスについて、                 
フランシスコ会司祭本田哲郎の「マリヤの子」イエスの説明に基づき紹介したいと思うのです。
 イエスをひと言でいえば、当時の社会の底辺に立たされ、差別された本当に貧しく、小さくされたひとりの人であり、最後には「罪人」の一人として十字架にかけられた”ひと”なのです。
 実に、イエスはその生誕のはじめから落伍者の部類に入る、冷たい目で見られていた、その日その日をあくせく働いて過ごしていた「大工」のヨセフと、その許嫁「マリヤの息たちにとって子」、つまり出生に罪の穢れがまといついているとみなされる『罪の子』として社会の人々から蔑まれ、イエスはその出生から「罪びとの仲間」と見なされ、ユダヤ社会の枠組みの外に位置づけられていた筈だというのです。イエスが住む村の人々はみな、マリヤが聖霊によってみごもったなどと信じるはずもありません。唯一つ、村人たちが考えたであろうことは、イエスがヨセフの子ではない、「マリヤはどこの誰とも知れぬ者と罪を犯してイエスを産んだ」ということです。マリヤとイエス、そしてその二人と一緒に暮らすヨセフも含め3人の家族は、どれ程肩身の狭い思いで毎日を過ごしていたか、その貧しさにおいてだけでなく、宗教的社会のなかで「罪びと」として差別されていたということに於いても、最も小さくされていた人々の仲間であったと本田哲郎師は聖書に書かれた言葉や物語を解説しています。まさに、イエスはその生い立ちから死に至るまで、当時の社会的・宗教的な見方からすれば、≪最低の人々≫であったということに他ありません。

 最後に申し上げて参りましたことを纏めてみましょう。この正月のご挨拶として、麦の家に基本理念でもある「一粒の麦」であるイエスについて申し上げてまいりました。イエスと言うひとりの人を如何にとらえるか、その出生から見たイエス自身について、本多哲郎師のコトバを用いて紹介させて戴いた次第です。

 
 そのイエスが死の直前に、遺言として「私を見た者は、父を見たのだ」と告げられますが、父である神ご自身が本来的に「低きに立つ」方であり、イエスもまた貧しく小さくされた同じところに立つ一人の❞ひと”であったのだという事です。イエスの立ち位置に私たちも立つことを願わずにはおれません。麦の家が取り組む凡ての実践の原点が、イエスの立つ位置に立つことが出来る様に、麦の家の皆さんと共に真剣に考え、麦の家で生活するお年寄りと共に歩み続けたいと願うものです。現に貧しく小さくされた人である麦の家で生活する認知症を患うお年寄りの人々との交わり、連携ケアを通じてこそ真の救いと開放があるのだと申し上げ、新年の挨拶を終わりとします。感謝!




 
 




 

 

 

 

掲載日:2016/12/30 トップページ > 麦の家からの発信 > 理事長のつぶやき > 新年のご挨拶